光禅寺の歴史

光禅寺の紹介





 広島の西部で大きなお寺と聞けば、そのうちの一つに光禅寺の名が挙げられます。
 本堂の大きさは、十三間四面。外陣の畳は百八畳という大空間です。本尊は阿弥陀如来。
浄土真宗本願寺派のお寺です。

 歴史は古く、光禅寺の前身である治音寺(慈恩寺)が創建されたのは、およそ1280年前の
ことです。

 1506年(永正3年)真言宗のお寺であった治音寺を、祐仙住職が親鸞聖人の教えに帰依
して光禅寺と改めてからでも510年以上になります。それから今日まで、地元の方々を中心
に遠近各地よりたくさんのご縁をいただき、広島・五日市の人々の心の支えとなるお寺とし
て、多くの方にお参りいただいております。


お念仏のぬくもりのあるお寺


 お念仏をとなえるということは、お念仏を聞かせていただくことです。お念仏を聞かせていた
だくというのは、実は「南無阿弥陀仏」というみ名に込められている、阿弥陀如来さまの本願
の、み教えによびさまされて、阿弥陀如来さまの智慧と慈悲こそ、私の人生のよりどころであ
るということに気づかさせていただくことです。

 「何も残ることはない。
  何も残るものはない。
  ただ念仏だけが残ってくれる。
  ただ念仏だけが残ってくれる。
  えらいこったよ。
  ありがたいこったよ。」(池田栄吉)
 お寺は、わたくしたちの聞法と研修の道場です。光禅寺は、これからも「お念仏の道場」とし
て、その役割を果たしてまいります。

 


歴史

行基菩薩により開基


 光禅寺の歴史は、古く奈良時代までさかのぼります。寺伝によれば、1280年前、人々
から菩薩とあがめられた行基が五日市に訪れになった際、高井、口和田村の境に光禅
寺の前身治音寺(慈恩寺)をお建てになったのが始まりといわれています。

 それから70年後、こんどは弘法大師空海が全国巡業の途上、治音寺に旅装をとかれ
た時、自ら虚空蔵尊を彫って安置され、「宝玉山」の山号を残されたとも伝えられていま
す。

 1506年(永正3年)時の治音寺住職祐仙は、本願寺第9代実如上人の仏導に深く帰
依し、阿弥陀如来像を授けられるとともに、「光禅寺」の寺号をいただいて、真言宗から
浄土真宗に改宗しました。1559年第2代住職了善は、保井田村の五葉院谷に寺基を
移し、「五葉院」となり、「五葉院・光禅寺」の寺号となりました。さらに、1580年第3代住
職祐了の時に、現在の五日市の地に移りました。



「安芸十二坊」の首席として


 戦国時代から江戸時代初期にかけて秋の国(広島)の領主は多く替わりました。その
時代にも、光禅寺は親聖人のみ教えを堅く守り、五日市の門信徒拠りどころでありまし

 毛利輝元の後を受け、1600年(慶応5年)広島城主の福島正則は仏護寺(現在の本
願寺広島別院)を始め城下の主だった浄土真宗寺院を寺町に集めるように布告を出し
ました。

 しかし、光禅寺はそれに従わず現在の地にとどまりました。(寺町に寺領を拝領し坊舎
を建てましたが、実際には移転しませんでした)「安芸十二坊」の首席としての寺勢を備え
ていたことと、「五日市の寺」としての誇りと地域教化を第一の使命としてきた伝統を守っ
てのことでした。


木版大蔵経


 光禅寺に代々伝わる木版大蔵経は、明治初年、中地の第17代池田源左衛門(八幡
川酒造の創立者)の母、セウさんから寄贈されたものです。池田家は光禅寺歴代住職と
同じく、池田城主・池田兵庫の介守睦を祖先としており、先祖代々の墓所も光禅寺がお
守りしています。大蔵経(一切経)は、5048巻に及ぶ膨大な仏教経典(経・律・論)を総
集したものです。


親鸞聖人の御影


 光禅寺本堂の親鸞聖人の御影は、親鸞聖人が正面を向いておられます。「真向いの
御影」は、全国的にも珍しいものです。安芸教区でも数か寺といわれています。

 浄土真宗二万五千寺の御影は、ほとんどが右向きです。右に向いておられるのは、
親鸞聖人ご自身が、阿弥陀如来の本願に帰依されているお姿を表現しているためで
す。

 それに対して、「真向いの御影」は、凡夫が救われる道はお念仏しかないと強い姿勢
を示されているお姿といわれています。

 


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